王子製紙 泊居工場
創業者・寺﨑治作は、1889年(明治22年)射水郡大島町生まれ、パイオニア精神旺盛で積極果敢な人物。
17歳で親元を離れ横浜灯台局に就職。4年間、灯台建築で朝鮮6都市を巡り、当時は珍しく最先端のコンクリート技術を習得、入隊を機に故郷に戻る。
20歳台は小杉町で大工自営する。32歳にて技術力を活かす工事を求め、一人、北海道函館から樺太泊居へ。樺太工業の火災復旧の危急工事で実績を収めた。
1923年(大正12年)3月、治作34歳、大島町・小杉町の内弟子の大工十数名を率い「寺崎組」で樺太工業の下請けに。これが寺崎グループ起源となる。
製紙工場の下請けでは、工場建物の新設・維持に加え、森林伐採やその運搬で実績を積む。町内土木工事やよろず屋の開店まで事業を広げた。
寺崎組は終戦直前に閉鎖した1945年4月(昭和20年)までの22年間、泊居町を代表する名士企業にまで成長した。
樺太は、日露戦争後1905年(明治38年)、北緯50°以南が「南樺太」として日本領となる。泊居は、南樺太の中央部東岸の人口数千人の町である。1920年代初め樺太は良質な石炭採掘で移民が増え、1920→25→30年に10→20→30万人と増え、林業とそれを原料とする製紙業が主要産業に成長した。 泊居町は製紙大手「樺太工業」の工場町。1933年(昭和8年)王子製紙に経営を譲っても、泊居工場の発展は続いた。
創業当時の当社
1937年(昭和12年)3月、富山市中島にて、木材・水資源活用し、日本曹達パルプ工場(昭和16年から興国人絹パルプ)が開業した。
この興人工場に、王子・泊居の前製造部長が工場長として着任、これに請われて、1940年(昭和15年)、寺崎組富山出張所を開設する。
富山出張所長に親族抜擢で経営を整えた。戦火で樺太が沈下する中、寺崎組も富山での事業が主となっていく。
終戦後、樺太での製紙業下請を糧に、興人・富山工場と連携しつつ、製紙業創業に着手する。
・戦地や樺太からの引揚者を積極的に雇用した。
・製紙材料は、興人工場から発生する、木節繊維カス(ノット)を確保した。
・興人富山工場の近接地を工場用地に、当時のGHQへの直接交渉により取得に至る。これが、現当社の所在地となる。
1948年(昭和23年)2月、富山製紙株式会社を設立、創業した。治作59歳。
昭和23年当時の富岩運河
昭和30年代の紙管製造
昭和43年長網抄紙機新設